初代高山藩主 金森長近(かなもりながちか) 京都を愛した武将

金森長近(かなもり ながちか)という武将を知っていますか?
僕たち高山人からすると、とても馴染み深い武将で、城跡の公園にある銅像は高山人であれば一度は見たことがあるのではないでしょうか?
簡単な歴史年表を下に書きます。

【歴史年表】==============================
1524年 誕生
1575年 信長から「越前大野郡」に所領を与えられる
1586年 秀吉から「飛騨国」をあてがわれる
1588年 高山城築城、街づくり開始
1600年 関ヶ原の戦いでの軍功により、飛騨国に加え、
     美濃国、河内国などの領土を得て、初代高山藩主とる。
1608年 亡くなる

長近は、織田信秀→織田信長→柴田勝家→豊臣秀吉→徳川家康→徳川秀忠と主君を代えて、1608年に亡くなります。
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そして、この長近が1588年ごろから京都を参考にして作った町並みが、現在の高山観光の礎となっています。

長近の街づくりによって、城から近い場所を「上町(かみちょう)」、安川通りを隔てて遠い場所を「下町(しもちょう)」と名付けられました。また、宮川から遠い順に「一之町(いちのまち)」~「三之町(さんのまち)」として整備されました。
地図を見ると、高山の城下町が京都のような碁盤の目になっていることがわかります。この頃の街づくりの結果が、飛騨高山が小京都と呼ばれる理由になっています。

そして興味深いことは、長近が最初に収めた「越前大野郡(現在の福井県大野市)」と飛騨高山との共通点です。その共通点で最も顕著なのが方言です。城主の移動に伴い、家臣、そして有力な商人や町人が一緒に移動するので、方言が似ることは納得できますね。
越前大野と飛騨高山で共通する方言は次のようなものがあります。

「悪い」 ⇒ 「おぞい」
「凍る」 ⇒ 「しみる」
「鳥肌」 ⇒ 「さむぼろ」 など

町がゴソッと移動した結果です。今では考えられない現象で、とても興味深いですね。

ちなみに、越前大野は「北陸の小京都」と呼ばれています。このことから、長近が京都にとても憧れていた様子がうかがえます。

このような切り口で町を見てみると、とても興味深いです。
高山観光の礎を作った長近がもっとクローズアップされることを期待しています!



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